しゃぶしゃぶ

NEWSとJUMPと嵐

丑野家闘病記

8月7日、最後のCTの結果が告知された。
「新たな再発/転移所見を指摘できません」
母が末期の卵巣癌と診断されて約1年、終わってみれば1年前に「理想」と言われた「今日」だった。


事の始まりは「なんかしこりがある」という母の申告。
素人が分かるほどの「しこり」だなんて、言われた瞬間から不安しかなかった。
「まず病院に行こう」
そうとしか言わなかったものの、「多分そうだろう」と思っていた。
通院していた先生に大学病院の紹介状を頂き、飛び込みで診察してもらい、初日の結果は、「だいぶ大きい」。
早急に開腹手術の日を決めて頂いた。
治療計画を立てるために、開けるしかないと言われた。
その時はまだ、「そうですか」、と淡々といられた。
病状が分からない。先生もなんとも言えないのなら、素人が何を言えるはずもない。


「5年生きられないかもしれない」
開腹手術の結果そう言われて、それでも、「そうですか」、と返していた。
手術中の写真を告知なくばーんと見せられて「おおおおおこっちは素人ですけどおおおっ」と若干引きながら、手術結果をどこか他人事のような距離感で聞いていた。
ステージ4だった。
「薬が良く効くタイプの癌です。ただ、大きすぎるので、なんとも…効かなければ、秋まで持たないかもしれません」
病院のトイレで泣いた。
どうなるか分からない。先生がおっしゃった通り、良く効くかもしれない、効かないかもしれない。それは先生にも分からない。なまじできるかできないか結果について確答できない仕事をしているだけに、先生に詰め寄る事もできなくて、ただ泣いた。
診察後、店長への結果報告の電話も、泣かずにいられるまで待って電話したはずなのに、話す内に泣いてしまった。「悪い結果になるとは限らないよ」年下の店長にそう言われて、ますます泣いてしまった。このタイミングで彼が店長でいてくれたこと、感謝している。


「私はこの瞬間に対して高校生の時に覚悟を決めたはずだ」そう思い直して、フォロワー様からも温かいリプを頂いて、帰宅の運転で気を持ち直した気でいたけれど、帰り着いてみれば、ずっと泣いていた。
明日も仕事だ、洗濯しなきゃ、ご飯食べなきゃ、お風呂はいらなきゃ。そういう「普通の日常」に移れなかった。泣くしかできなかった。
でも「普通の日常」を送らないといけない。母が末期癌で入院しようと、私は明日働くべき場所がある。
友人に電話した。
妊娠中なのに、という理性を押しのけて甘えてしまった。飛んで来てくれた。
ただ、嗚咽しながらの電話を切った瞬間に、最早正気だった。「こんな汚い部屋にあげるわけにはいかない」と、早速掃除をしていた。
その時に、「わたし」が「わたし」だと思っている「わたし」は、他者といることで成り立ってるんだなと思った。ひとりでいる「わたし」は、ただ泣いていた。他者といるから、「わたし」は社会生活を送れる「わたし」でいられる。
泣くしかできない時でも、「ちゃんとしなきゃ」と思える自分と、頼れる友人がいる幸せを知った。


投薬治療をして、薬が良く効いて摘出手術までできるのが理想、と言われた。
癌が大きいので、冬には手術をしたい、とも言われた。
ステージ4にも関わらず治療方法があったのは、本当に不幸中の幸いだった。


その後3ヶ月ぐらい入院していた気がする。
その間、毎週毎週雑誌に載ってレギュラー番組がある嵐の存在が有り難かった。
母が入院している間は早上がりを増やしてもらって、仕事して病院に寄って、という日々が多かったけれども、その時に新しい嵐の雑誌と番組をお土産にできるのが、こちらの気持ちも軽くなって助かった。
「この時のにのがね」「大野君がwww」
病院にいながら、今までの日常と変わらない会話ができた。
木曜日に立ち寄った時、相部屋4台のテレビがVSを映していた時、「嵐ってすごいな」と純粋に思った。FC数がどうこうとかじゃなく、長期入院している相部屋の患者さん4人がみんな見ているという事実。
こういう言い方すると重たくなっちゃうけど、鬱々とした心を嵐が軽くしてくれてたよ。

ブラストハワイ/THE DIGITARIANツアー/デビクロくん/年末の怒涛の音楽番組/紅白司会/新春ドラマ/オリエント/ピカハフBD/母と暮せば/赤めだか/殺せんせー/ワク学JUMPくん共演/ブラストミヤギ/FREESTYLEⅡ/2015ツアー/坊ちゃん…

書ききれん。
嵐の供給量半端なかった。
ずっとずっと新しいものをくれてた。

ハワイの初日、末ズの挨拶で泣いた。
待機組にも配慮をありがとう。
ハワイの2日目、にのの挨拶に泣いた。
たくさんの「ありがとう」をありがとう。こちらこそ「ありがとう」しかないというのに…

母は薬の副作用で抜けた自分の髪を集めて「針刺し作る」というような気丈な人なので、嵐がどうとか関係ないかもしれない。
それでも、自分が朝の9時に出て夜中の24時まで帰れなかったりする仕事をしていると、半日以上一人でいさせてしまう母が「楽しみ」と思える趣味を持ってくれたのはホントに有り難かった。
嵐を好きでいてくれて良かったなと思った。


そして裕翔君も大きかった。
山田君のドラマをして、
「病と闘う人たちへの思いがいいほうへと変わる気がします。
このドラマを見て少しでも何かを感じてくれたらなと思います。」
そうコメントする裕翔君は真っ直ぐで誠実で一生懸命だなって感じた。
でも、山田君のドラマが今年で良かったと思う。
2014年の夏の思い出のドラマが、裕翔君のみずたまでホントに良かった。
一人の夜に、みずたまのキラキラした青春に夢中になって己の中になんとなくある不安が消し飛ぶ夏を過ごせて良かった。2014年の夏=みずたまな日々を過ごせて良かった。

『デート』で依子パパが「なぜこうしてやらなかったんだろう」て後悔を語ってる時、まさしくそういう後悔を抱えていたわたしは号泣だったし、巧さんが屋上で「お母さん、死なないで」と泣いていたシーンでは、開腹手術の日まさしくそうして泣いていたわたしは号泣だった。

裕翔君を追っていてリアルでは到底流せない涙を流せて、とても良かったと思う。


摘出手術の日、11時間ほど待機していた。「電話してすぐ駆けつけられる距離に居て頂ければ」とは言われたけど、病院内にいる以外の選択肢はなかった。
手術前の母はいつも通りだったけれど、手術後の彼女は様変わりしていた。
ずっと痛がっていた。「痛い…痛い…」と呻くしかできない母に、わたしも「そうか…そうか…」と言うしかできなかった。


「癌を摘出」というのは、「悪者退治」のようなイメージを持っていたけれど、考えてみれば「もとは体に必要な器官をまるごと摘出する行為」なのだと知った。
正直、摘出手術後が一番辛かった。
仕組みは知らないけどやたら痰が出る母、一人では吐けない母、一日中寄り添って介助する日が数日続いた。他に変われる家族はいない。ずっと1対1だった。


摘出手術直後、先生のもとへ呼ばれて摘出された物を目の当たりにした時、その時に初めて先生のお顔を拝見した。病院の方々は常にマスクをしている。人相って実は分からない。母の命を預けてる人のお顔をわたしは知らなかったんだ、とその時に初めて気付いたし、この先生が主治医で良かったと思った。表情がとても暖かい方だった。
部屋に入った瞬間の生暖かさ、温度を匂いでも感じるんだと知った。母の病巣の匂い、一生忘れられないと思う。



CT結果を受けて、1年前、「5年生きられないかもしれない」とおっしゃったのは無効かと、とてもききたかったけれど、聞けなかった。
答えられる質問ではない。
この先何年一緒にいられるだろう。
時間は限られているのだろう。
でも気負っても仕方ないし、変わらぬ日常を過ごせるならそれが一番いいし、そうしてずっと続いていくのがいい。


不安をこまめに綴るのは私の精神衛生上大変宜しくないと思っていたので、根治の日を待っていた。
ブラストミヤギ落選で彼女は凹みまくってたけど笑、次は2015ツアーがあるので。その申し込みができる明日があるので。申し込むかまだ分からないけど。


ひとまず闘病は終わった。
いろんなことを考えた一年だった。

自分が鬱々としてる日も、ふとTVをつけると、嵐が嵐らしく笑ってる。わたしのこの15年、好きの温度差こそあれ、ずっとそうだったんだ。20年目も、30年目も、そうであって欲しい。
いや、私の人生=嵐ではないんだけど、日常に嵐がいるのは当たり前なんだなぁとしみじみと感じた。
お茶の間にいるのが当たり前な嵐はすごい。タモさんかよ…


とか言いつつ今はJUMPくんたちへの熱が最高潮超なんですけどね!!!てっぺんが止まることを知らずどこまでも昇りつめそうなJUMPくんたちの勢いが楽しい…!!!



この先、この1年よりしんどいことがあるかもしれない。
その時の私の趣味がジャニーズかは分からないけれど、2014年8月からのこの1年、私は確かにジャニーズに元気をもらっていた。
いつでもキラキラの笑顔でアイドルでいてくれてありがとう。
まさか「好き」の対象が増えてこんな熱量が自分の中に生まれるとは思わなかったけど、これからはただ追いかけらるのが楽しそうでしょうがない。


後ろ向きは辛い。でも前向きすぎるのも生き辛い。
我が家のペース崩さず、この先一緒に居続けられたらいいなと思う。