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映画『母と暮せば』

父と暮せば』は、娘が主人公で、娘に「生きる気持ちを取り戻させる」物語だった。タイトルも、『父と暮せば』、娘視点だ。でも『母と暮せば』は?主人公は吉永小百合さん演じる母としながら、タイトルは息子視点。あらすじの一部も、生前の彼女に新しい人ができるのを受け入れられない息子、そんな息子を愛おしく想う母、とあり、変化を求められているのは息子の方にも感じられる。でも幽霊が出てきたきっかけが「母が息子の死を受け容れたこと」なら、母が生きていく為の物語なんだろう。『父と暮せば』を読んだことで想像が具体的になった。

父と暮せば』の原作を読んだ時の感想。『母と暮せば』、全然「母が生きていく為の物語」ではなかった。
WSで流れていた教会でのシーン、町子の結婚式だとばかり思っていた。よもやお母さんの葬儀だったとは…

冒頭のシーン、こうちゃんの可愛さにひっくり帰った。
「母さーん!母さーん!」
「はぁーい!」
普段のにのの声よりちょっと高めの声。若いというより、幼さを感じた。奔放で甘えっ子な男の子。
授業前に友人たちとふざけ合い、授業が始まれば真面目にノートを取る勤勉な学生さん。
原爆が落ちた瞬間の、肉声にはならなかった息を飲む声。宣伝番組で何度か見ていたけれど、やはり胸をぎゅっと潰されるようだった。


お母さんが「浩二のことは、諦めよう?」と町子にぽつりと漏らした夜、こうちゃんはお母さんの前に姿を現した。
お母さんに「元気?」と訊かれて障子から足だけ見せてパタパタパタっと笑うこうちゃん、めっかわやった…可愛すぎる…なにあの愛しさ…

「3年も待った」と言うこうちゃん。どうしても出てきたかったのだなぁ…
階段に微笑んで座っているこうちゃんが現れて、それだけで涙が出た。にこにこと嬉しそうにして、楽しげにお母さんとおしゃべりして、3年間ずぅっとそうしたかったし、本当はもっと長くそうできるはずだったのに、できないんだ。こうちゃんもお母さんも明るく笑ってるけど、悲しいやりとりだ思った。


大好きな町子を通して少しずつ自分の死を受け容れていくこうちゃん。
「町子には僕しかおらん」「嫌だ」「僕は死んでない」
そう頑なだったこうちゃんが「それが僕の運命」と悟ったように言った言葉。それに対してお母さんが「運命なんかじゃないのよ。人が計画した、大変な悲劇」と返し、静かに涙を流すこうちゃん。すぅっと姿を消した後の、「悲しくなると消えるのね」て言葉に私が悲しくなった。「諦めわるかねぇ。母さんは」と言っていたけれど、こうちゃん自身も出てくるのに3年かかったのかもしれない。ずっとずっと悲しかったのかもしれない。ずっとずっと悲しかったから、出てきた時、あんなに嬉しそうだったのかもしれない。おしゃべりが大好きなこうちゃん、お母さんが返事をするまで「母さん、母さん」て呼び続けるこうちゃん、お母さんとおしゃべりできて、どんなにか満たされたことだろう。


でもこのシーンから、温かさより悲しさがじわじわ増していったような気がする。

それはこうちゃんが自分の死を受け容れて、この世への執着を少しずつ昇華し始めた代わりに、お母さんが少しずつ崩れていったからのように思った。


上海のおじさんにこうちゃんがハタキを持って追っ払おうとしてたシーン、温かさしかなくて、「父さんに言いつけてやる」というのも前向きな言葉にしか思えなくて、それは私の中では町子は黒ちゃんと、お母さんは上海のおじさんと一緒になって終わる大団円だと想像していたからなんだけど、お母さんが闇商品の購入を拒否した時、びっくりした。ホントに上海のおじさんと距離を置くなんて…しかも「息子が言うから」って、他人に言っちゃうなんて…そんな、憑かれた人のような…


お母さんは一人ではいられない人だったのかもしれない。
ご主人が亡くなった時は、息子が2人いた。お兄ちゃんが亡くなった時は、こうちゃんがいた。こうちゃんが亡くなった時は、町子がいた。でも町子に自分の人生を歩むよう背中を押した時、お母さんには亡霊のこうちゃんしかいなかった。
本当は、お母さんには上海のおじさんがいたはずだ。町子に「浩二のことは諦めよう?」と言った時、お母さんの心には上海のおじさんがいたように思う。ほんのりでもいたはずだ。こうちゃんが亡霊となって現れても、ハタキのシーンでの会話をみると、上海のおじさんはお母さんの心から吹っ飛んでない。好意を持たれているのに甘えて食料を安く買って、好意に対してもまんざらではなさそうだ。
「息子が言うから」と闇商品の購入を断っていたけれど、それが理由だろうか。
お母さんがどんどん弱っていったのが気になる。
もともと体の丈夫な人ではないようだった。
でも物語が進むごと、細く、弱く、伏せってしまうことが多くなった。身体が弱り、心まで弱り、町子に対して「なんであの子が幸せになるの?」などと思って、それを口にしてしまうなんて…


近所のおばさんがお母さんの亡骸の横で「伸子さん、一人で逝ってしまうなんて可哀想」て泣いてるのを見て、本当にそうだと思った。こうちゃん、お母さん、一人で死んじゃったよ。息子の元婚約者に嫉妬を抱いて、疲れ果てて、死んじゃったよ。ねぇこうちゃん、お母さんを連れてくの?それじゃあ、お母さんを道連れにしたようにしか見えないよ。息子の亡霊に取り憑かれて、お母さん、衰弱死しちゃったの?「母さんはもう、こちら側にいる」って囁くこうちゃん、ああ、亡霊とはそういうものかと思った。「もう出てこれないかもしれない」と言うこうちゃんは、全然、そんなつもりなかったんだろうと思うけど、結果として、見えないものを見続けたお母さんは、弱っていってしまったのかな。「嬉しい」と心底笑顔でこうちゃんの手を取るお母さん、悲しかった…


お兄さんの亡霊とこうちゃんの亡霊の違いにとても意味を感じてしまう。
こうちゃんが言ってた。「兄さんは何日もジャングルを彷徨って、母さんに会いたいってずっと思ってた。僕は、何が起きたのかわからなかった」
お兄さんの亡霊が夢枕に立った時、お母さんはそれだけでガタガタと震えていた。お兄さんの姿も、傷だらけで、目がギョロリとして、無言で、禍々しい雰囲気で、家の外にはおそらく一緒に死んだ仲間がジロジロと家の中を覗き込んで、およそ「会えて嬉しい」というような出方ではなかった。「亡霊」に相応しい恐怖感を纏っていた。「夢枕に立ってさよならを言う」というのは、ああいう異形な者としての姿を見せることをいうのかも。見ただけで、「戦死したのだ」と悟ってしまえるような姿を見せるのが本当なのかも。
こうちゃんは生前と全く同じ姿で、同じ振る舞いでお母さんと一緒に居続けた。そうしてこうちゃんは自分の死を受け容れることができたけど、お母さんは…

エンディングはもう、亡者たちの合唱にしか見えなかった。雲の上で真っ白な衣装を着たたくさんの人が合唱する様は、歪だった。なんだこのハッピーエンドのような絵面は…怖すぎる…


母と息子の心温まる物語ではなかったのね…戦争が背景にあるんだから、そらそうなのか…と意気消沈してたら、一緒に観に行った母の言葉にはっとした。
山田洋次監督と、吉永小百合だったから優しかったけれど、戦後は、人の羨望や妬みが、もっと刺々しいものだったと思う」

『母と暮せば』の中では、人の温かいやりとりはそのものを見せていたけれど、辛い出来事は語りで伝えていたなと思う。
こうちゃんがスパイ容疑で連行されて殴打されたこと。
町子が友人のお母さんに生き延びたことを責められたこと。
お母さんが仲の良かった人に裏切られ、酷い目にあったこと。
こうちゃんが現れた冒頭のシーン、お母さんは、爆弾投下後の長崎を「地獄」と言っていたけれど、3年後もまだ「地獄」だったのかもしれない。
お母さんは着物を綺麗に着、食事を作り、掃除をし、年中行事を行う、そういうきちんとした生活を慎ましかに過ごしていたけれど、そうして穏やかに日々を暮らしていくのは、並大抵のことではなかったのかもしれない。穏やかで優しくあるには、棘のある人や出来事が多すぎたのかもしれない。

体も心も丈夫でないお母さんが生き続けるには、辛すぎたのかも。
こうちゃんと一緒に逝くのが大団円、そんな世の中だったのかも。

でも二人の周りには優しく温かい人たちがいて、そんな人たちとの日々を切り取っていたのは、それが二人の中心だったからなのかな。
特に、町子がこの世に繋ぎとめていたんだろう。町子が福原家と離れる道を選んだから、選ぶことができたから、二人はこの世とさよならしたんだろう。お母さんは疲れすぎて、最後に棘を見せてしまったけれど…


真っ白な光に包まれてこの世を後にした二人。
幸せそうに寄り添ってたけど、こうちゃんね、あちらの世界でお兄さんにめっちゃ怒られると思う。「守れと言っただろう」って、柔道2段の筋骨たくましいお兄さんにめっちゃ怒られると思う。お兄さんに叱られるこうちゃんを、お母さんはお父さんの隣りでうふふと笑ってるのかなぁ。


福原浩二という青年は、私の中のにののような子だった。
音楽家や映画監督や小説家に憧れる夢見がちな男の子、でもお兄さんに諭されて医科大を受験すれば合格する頭の良さ、好きな子に嫌われたかもと思うだけで寝込む弱さ、好きな子とはいちゃいちゃべたべたしちゃう甘えっ子、現実を受け止める精神的強さ、、、
でもやっぱりにのではない。こうちゃんだったな。にのが演じて生まれる人物って、生きてるからすごい。でも生きてる人間が演じてるのだから、生きてるのが当たり前なのかな…なんて思ってしまう自然さがにのなのかなぁ。


観た直後は悲しくて悲しくて悲しくてとても「いい映画」だなんて言えないって思ったけど、心の整理がつき始めて「そんなことないかも」と思えてる。
でもやっぱり辛いから、絵本や小説はしばし時間を置いてから読みます…

それからもう一度観に行きたい。ただ見にいくのではなく、観て、考えて、また観て、ということをしたい映画でした。