しゃぶしゃぶ

NEWSとJUMPと嵐

『デート~恋とはどんなものかしら〜』

面白いドラマだった!!!
裕翔君の出演が告知された時は「つまらなそうなタイトルだ」と思ったし、2話で完全無欠の好青年が人を罵倒してるシーンでは「この先見続けられだろうか」と先行き不安になったけれど、総じて、面白かった!ドラマのラストでは、鷲尾君は人の気持ちの分かる優しい完全無欠な好青年であると知っている今、心が弱ってる人に正論を真っ直ぐぶつけることの残酷さを全く分かってない「完全無欠」さも、裕翔君の演技が全力で真っ直ぐであるから、こんな時代もあったねと、むしろ微笑ましく見れる。



やはり作品を面白くするには脚本が大事だなぁとしみじみしている。
嵐にしやがれ』で唐沢寿明さんがおっしゃっていたことがずっと残ってる。

「脚本がダメで、演出がダメでって言われるんだったら、『俺自身でなんとかならないのかな』とか。最後の抵抗?(にの「自分が選ばれた意味だよね。ホントに」) ひどい話だけどさ、ね、次はさ、どんなにひどい脚本どんなにひどい演出だとしても、『唐沢ならなんとかしてくれるんじゃないか』っていう、最後に、そういうものもあるかもしれない。そういうものも含めて俺は捨ててないのよ」
(2014年9月6日)

それは俳優さんとしての「在り方」のお話だなぁと。どういう姿勢でお仕事に臨むかだなぁと。
確かにそういうお仕事の仕方をされるのなら、どんどん次へ繋がっていくだろうと思う。好きな俳優さんのそういう姿勢を感じると、こちらも「好き」が増すと思う。
でもそれは「面白いドラマ」になるかどうかとは別だよなと。
「面白いドラマ」であるにはいい脚本、いい演出も必要不可欠だと思う。話の筋が分からないとか、人物造形が薄っぺらいとか、演出の効果が意味不明とか、そういう所は俳優さんの演技だけでは如何ともし難い。
私は「面白いドラマ」が観たい。
もともとTVっ子だったけど、にのを好きになってから、嵐を好きになってから、ドラマや映画を観る機会は格段に増えた。
「自担が出てるから」「嵐が出てるから」最後まで観ようとするけれど、特ににのが出てるドラマは頑張るけど、「自担が出てるから」「嵐が出てるから」観続けているというのは寂しい。「ドラマが面白いから」「ドラマが好きだから」観続けたい。
残念ながらにのが出演するドラマや映画は私の趣味嗜好から外れてる作品が多いので、作品そのものを楽しめないことが多い。
オリエント急行殺人事件』も、豪華で壮大な作りだったけど………
盤面に関して、「自担以外の作品は買わない」というルールを設けてるんですけど、同時に「自担だからといって買わない」というのもある。「作品自体を楽しめないのなら買わない」。にの出演の作品の盤面、持ってないものの方が実は多い。
メイキングやコメンタリーや記者会見の様子や、それだけで価値は十二分にあるんだけど、それはあくまでおまけであって、そこを観たいが為に買うのは違うなと思ってる。本編に愛を持てないのなら買わない。

でもそれすっごく寂しい……ッ!
にの担なのに、にのの演技も好きなのに、作品は好きになれないものが多い。寂しい…ッ!
自分の中で「苦手」や「嫌い」が明確にあると、提供されるエンターテイメントを楽しめないことが多くて、それは自分にとっての不幸だなと思う。でも曲げたり誤魔化したりすることはできない。自分の趣味に合致する作品を待つしかない。結構待ってる。よわかては最後の2話で大好きになったけど、面白くなるまで引っ張りすぎた。
Twitterしてて楽しいことの方が圧倒的に多いんだけど、盛り上がるにの担さんたちとの温度差に勝手に凹んでたりもする。にのが好きだからって無条件に作品を好きになれるわけじゃない。
はあ。寂しい…



てところに裕翔君ですよ!!!
水球ヤンキース』の尚弥君、ホントに良かった。尚弥君を好きになって裕翔君を好きになった。ツッコミどころもあったけど、ドラマ自体が大好き。1話ですぐ好きになった。久々の邂逅…!!「ドラマが好き」に久々の邂逅…!!


そして次の演技ゴトの『デート~恋とはどんなものかしら〜』、脚本が圧倒的に素晴らしい…!!!
冒頭で言った通り最初は引いてしまうとろもあったので、「やはり苦手かも」と思ったけど、そこすら敵の手中だった!視聴者のツッコミすら想定内で作ってた!
その台詞で視聴者はどういう「先」を読むのか、その言い回しでどういう思い込みをさせられるのか、計算されていた。すごい。全10話、一文の無駄もない。
回収された時に初めてあれが伏線だったと分かる。「ああ、これ伏線か。じゃあオチはこうか」という穿った見方をさせない、正しい伏線の張り方ばかりだった。すごい。
一番好きな逆転は、依子さんのことを「母親の代わりに寄生する相手」と言っていた巧さんが、「この人は本当に恋がしたいんだ。その相手が僕じゃ可哀想だ」と叫ぶところ。
優しい……ッ!!!ああこの人は、こんなに優しい人なんだ。ニートに成り果てたのも、優しさ故だった。そこから立ち上がる勇気や強さを持てなかっただけ。成人男性としては結構な問題だ。
想いの強さや誠実さが伝わる素敵な台詞だと思った。佳織さんの初恋の気持ちは間違ってない。こんなに優しくて捻くれて面倒くさい人が近くにいたら、好きになっちゃうよ。書いてて思ったもの。にのかよって。


見事な脚本の中の鷲尾君の重要性。
巧さんのダメっぷりを際立たせる好青年、恋のライバル、依子さんに「恋」を教える白馬の王子様。
鷲尾君がいなかったら二人は結ばれなかった。巧さんと鷲尾君、二人とデートしたから、合理的過ぎる故人の気持ちを理解できない依子さんが、自分の気持ちの違いを実感できた。鷲尾君がおじ様おば様受けのいい好青年であるから、巧さんも焦ったり、依子さんの料理指導を受けたりした。あああああ不憫…!鷲尾君、不憫…!でも貴方がいなければ物語は成り立たない!リケジョとニートの恋を成功させる為の完全無欠の好青年!まごうことなき当て馬キャラだけど、ただ「当て馬」としているだけじゃない。物語のテーマを成就させる為のキーマン。依子さんと巧さんを結ばせる繋ぎ目。結果二人は鷲尾君を介さず手を取り合うことができたけど、鷲尾君がいなかったら、そうはならなかった。嗚呼、不憫…ッ!!!
でも鷲尾君が、最終回でもぶさいくな顔でわんわん泣いちゃうきゅーとさを変わらずに持っているから、多くの人に愛される。心の機微が分からない鈍感さを克服したからこそ、好青年っぷりに異常性もなくなった。
依子さんが鷲尾君にチョコレートを差し出して、「恋がしたいです」と告白するシーン。
鷲尾君の表情が、笑顔ではなく、眉を顰めたまま終わったこと、彼は依子さんの気持ちを正確に捉えているんだなと思った。自分を好いてくれているわけじゃない、ただ「恋」をしてみたいだけ。でもその相手に自分を選んでくれた、自分に「恋」をさせる自信はある、させてみせます!のキラッキラ笑顔!!!王子様…!!!


完全無欠の好青年を演じきった裕翔君。貴方を好きになって良かった。鷲尾君が多くの女性を落としまくってるのは、裕翔君の演技力の一つの答えだと思う。


Wink up 2010年8月号。
「『Dash!!』この曲は作詞を自分でやってみようかなって思って書くことになった曲なのね。作詞をしたのは初めてだったんだけど、今までオレがどう思っていたかが伝わる曲になったと思う。この曲だけじゃなくアルバムを聴いて、JUMPの曲をバンドでしたいって思ってもらえたらいいな。」

歌:Hey!Say!JUMP作詞:中島裕翔作曲:原一博

僕の中の僕に聞いた どうしたいの?
進んでいくのもストップも どっちだって自由さ
無理してたら折れた翼 翔べないまま
焦る僕を吸い込むように見下ろす空

じっと立ち止まっていても始まらない
君にはさ、見せたいよ 夢見てる 輝く世界

強く強く もっと強く 胸に想いを抱いたら
さあ行こうぜ 向かい風も受けて
高く高く もっと高く あの空のもっと上に
羽根を広げ いますぐ Just fly away!!

失敗なんておそれなくて いいんだよ
期待だけをポケットに めいっぱい詰めて行くんだ

つらいほうが多い時もあるけれど
君にはさ、見てほしい 夢の先 輝く世界

熱く熱く もっと熱く 胸の希望を燃やして
さあ行くんだ 追い風に乗って
遠く遠く もっと遠く 彼方まで翔べるはずさ
光る羽根で いますぐ Just fly away!!

強く強く もっと強く 胸に想いを抱いたら
さあ行こうぜ 向かい風も受けて
高く高く もっと高く あの空のもっと上に
羽根を広げ いますぐ Just fly away!!


好きになったタイミングが「輝く世界」を見せてくれている時であること、本当に幸運だと思ってる。裕翔君の今後の演技ゴトが楽しみでしょうがない。今度はどんな作品に出るのだろう。どんな役をやるのだろう。どんなことを求められるのだろう。それにどう応えていくのだろう。

『デート』では、求められていた以上の結果を残したとしか思えない。ここまでのこと、予想しえないよ。お芝居やドラマ作りに真摯に取り組む裕翔君の、その相乗効果が凄まじい。それを見守れて、体験できて、なんて幸福なんだろう。

まだ21歳。可能性は無限大。

『デート』で鷲尾君を演じる裕翔君を見ていて、強くそう思った。金熊賞、裕翔君ならホントに獲っちゃう気がするよ。にのがハリウッドに出たの、23歳だよ。なんでも出来る。本当に。そのポテンシャルがあるし、才能があるし、努力をするし、ホームを持ってる。裕翔君を俳優さんだと思って、ジャニーズであることや、Hey!Say!JUMPであることをマイナスに感じた方は、とりあえずJUMP君たちのパフォーマンスを見てみたらいいと思う。吹っ飛ぶから。侮りとか、吹っ飛ぶから。裕翔君が、自分の仕事を還元したいと思ってるグループが、Hey!Say!JUMPです。裕翔君のことをずっと見守って、裕翔君が「会って元気をもらえる」というメンバーが、薮君と、八乙女君と、有岡君と、伊野尾君と、高木君と、圭人君と、知念君と、山田君です。裕翔君を好きになったのなら、JUMPを好きにならざるを得ないと、私は思った。JUMPの中の裕翔君は、……結構、うっとうしい笑 ホントはそういう子なんだー、と驚いたし、微笑ましかった。裕翔君の掴み所のなさ、魅力的です。


「流れが変わった」という意見を多く目にする『半沢直樹』より、注目を集めたんじゃないかと思う、『デート』。この先のお仕事が、本当に楽しみです。

原作『弱くても勝てます』

進学校のへっぽこ野球部が独自のセオリーで甲子園を目指す」

その設定からイメージしていたお話まんまだった。とにかく笑える。生徒たちの頭の良さは「結果から考察する」より「先回りして考える」ほうに回転し、取材者(読者)を「つべこべ言わずに(バットを)思い切り振り切ればいいんだよ」ともどかしくさせる。誰も彼もが「考え過ぎ」ていて、取材中何度も引いちゃってる取材者のコメントが面白くて、ニヤニヤしっぱなしだった。

ドラマの敗因は「『信頼』や『思いやり』などは日常生活で学べば良い」という本を原作にしたのに「『信頼』や『思いやり』を野球監督に教えさせた」ところにあるのかなと。青志君は「偉大なるムダ」に生徒を全力投球させれば良かったわけで、城徳のセオリーを語る時、あんな説教じみた言い回しにする必要はなかった。そういうのは校長とか「部長」とか他の大人にさせれば良かった。

原作でも監督は生徒たちを怒鳴り散らしているけれど、それは生徒たちが「頭でっかち」で体が動かなかったり、コミュニケーション力が低過ぎてチーム内ですら意思疎通ができていなかったり、「人としてダメ」な部分が多過ぎて「なんで俺がこんなことまで言わなきゃいけないんだ!」てヤツで、「監督が変わってる人」だからじゃない。
なんで青志君をあんなめんどくさい人にしちゃったんだろ。誰よりも青志君こそがへっぽこだった。
進学校の変わった考え方をする野球部員と、生徒に合わせて独自のセオリーを生み出す思考の柔軟性はあるけど社会的感覚は真っ当な野球監督と、そんな野球部を見守る「普通」の記者。このバランスが面白い。ドラマではそこを崩しちゃってたなー。

個性とキャラクター性は違うのに、最近のドラマは人物像をキャラっぽく作り過ぎだなと感じてる。そして「成長」を見せるためにいちいち「過去」を持たせたり「事情」を抱えさせるのやめてほしい。
よわかてもそういうのなくひたすら野球をしてたら、絶対違ったのに。もったいなかった。原作がとても面白い分、なんだか悔しい。

しかしこれは完全に趣味の問題で、「スポーツだけしているスポーツ物」が好きだから(金字塔:スラムダンク)そう思うんだろうなぁと、自覚してます。
原作を読んで、ドラマのあそこをあーしていたら、こーしていたら、というifが膨れ上がった。

原作『父と暮せば』

前口上からはっと胸を突かれた。

アジアに対しては加害者の日本人が、何時までも被害者意識に捉われてナガシマやヒロシマの話をしていてはいけない、という声に、「否!」と言い続けるという。
二個の原子爆弾は日本人の上に落とされたばかりでなく、人間の存在全体に落とされたもの、あの地獄について書くのは、被害者意識からではなく、「知らないふり」をすることは、何にも増して罪深いことだからだと考えるからだ。(要約)

ヒロシマナガサキのことを後世に残すのは、被害者であったことを忘れさせない為ではない。ヒロシマナガサキについて知ることは、日本人がどれだけ酷いことをされた被害者であるのかを知ることではない。
あれが落とされた時の情勢、あの時の日本国内の空気、常識、多くの国民はそっと口を噤んでいた本音、投下のその日、ヒロシマナガサキの町はどうなったのか、生き残った方たちが語る「それ」はどんな物か、家族や友人のどのような姿を見ることになったのか、後遺症は、どんな想いを抱えることになったのか、その人その人が語る事実を蓄積することが大事なんだなと。何を感じ、何を決め、何を語り、或いは何を行動するのかは、受け手に委ねられている。
地獄について「知らないふり」するのが何より罪深い、とおっしゃる井上ひさしさんの書いた戯曲、こちらも向き合って読まないといけないんだ、と背筋が伸びた。


原爆から3年後の広島市が舞台。
『母と暮せば』では息子が幽霊だけど、『父と暮せば』では父が幽霊として登場する。
実の子のように可愛がってくれた親友の母に「なぜあの子が死んであんたが生きてる」となじられ、「自分は幸せになってはいけない、恋愛なんてしちゃいけない」と殻に閉じこもった日々を送っている娘。
そんな彼女の中に淡い恋心が生まれたのをきっかけに、原爆で亡くなった父が現れた。彼女の恋心が自分を生んだと言う父。父は娘の恋を応援するけれど、娘は頑なに自分の恋から遠ざかろうとする。そんな娘がもどかしく、父は「何故」と問い続け、物語が進むごと、彼女の後悔、罪悪感が紐解かれていく。

「おまいは病気なんじゃ。病名もちゃんとあるど。『後ろめとうて申し訳ない病』ちゅーんじゃ。気持ちはよう分かる。じゃが、おまいは生きとる、これからも生きにゃいけん。そいじゃけん、そやな病気は、はよう治さないけんで。」(抜粋)

娘を生かす為に現れた父が語る終盤の言葉、どれもがあったかくて強くて、娘は「父を見捨てた」と思っていたあの時のことを、父が「おまいはわしによって生かされとる」と言ったことによって、「父が娘を救った」場面になった。
あの日はむごい別れが何万もあった。生きてる人間は容易には受け止められない罪悪感を、その対象が幽霊として現れて、死ぬ直前までの想いをはっきり伝えることで、終盤にきても自分が幸せになることから逃げようとしていた娘は、ようやく自分の人生と向き合えた。そして幸せになれる道を選択できるようになった。

「こんどいつきてくれんさるの?」
「おまい次第じゃ」
「しばらく会えんかもしれんね」
「…………」


父と暮せば』は、娘が主人公で、娘に「生きる気持ちを取り戻させる」物語だった。タイトルも、『父と暮せば』、娘視点だ。
でも『母と暮せば』は?主人公は吉永小百合さん演じる母としながら、タイトルは息子視点。あらすじの一部も、生前の彼女に新しい人ができるのを受け入れられない息子、そんな息子を愛おしく想う母、とあり、変化を求められているのは息子の方にも感じられる。
でも幽霊が出てきたきっかけが「母が息子の死を受け容れたこと」なら、母が生きていく為の物語なんだろう。
父と暮せば』を読んだことで想像が具体的になった。


偉そうな冒頭から自担に着地してすみません。